校歌

校歌


茨城県立土浦第一高等学校校歌(明治44年制定)  作詞 堀越晋  作曲 尾崎楠馬
        

    沃野一望数百里 関八州の重鎮とて            
      そそり立ちたり筑波山 空の碧をさながらに            
      湛えて寄する漣波は 終古渝らぬ霞浦の水            
                   
    春の彌生は桜川 其の源の香を載せて            
      流に浮ぶ花筏 蘆の枯葉に秋立てば            
      渡る雁声冴えて 湖心に澄むや月の影            

 

現代語訳


  一 肥沃な平野をはるかに見渡し,関東八カ国の重要な鎮め(重鎮)として,
    筑波山は,そそり立っている。空の青緑色そのままに,
    水を湛えてさざ波が打ち寄せている,霞ヶ浦の水は,いつまでも変わることがない。

  二 春三月頃の桜川は,その源流の桜の花の香りを載せて,
    川の流れに桜の花びら(花筏)を浮かべている。蘆の枯れ葉に秋の訪れを感じる頃の
    霞ヶ浦は,湖を渡る雁の鳴き声が冴えわたり,湖の中央に澄んだ月影を浮かべている。


 明治44年(1911年)1月1日,選定校歌の発表があった。前年7月,全校生徒に校歌作詞の夏休みの宿題が出された。応募作品の中から,当時4年生(16歳)の堀越晋氏(中学校11回,明治45年卒)の作品が入選した。堀越氏は石岡市井関の出身である。最上級の5年生ではなく4年生の作品が選ばれたということで,全校生は驚きの念で迎えたという。卒業後,東北帝国大学医学専門部を卒業して,宇都宮の病院に勤務したが,大正6年(1917年)に23歳で夭逝した。

 堀越氏の詞を補筆し作曲したのが,国漢科主任の尾崎楠馬教諭(作曲時35歳,明治40年~44年在職)であった。尾崎氏は,高知県出身であり,東京高等師範学校卒業後,本校に赴任した。青年教師として国漢の教授,寄宿舎の舎監,水上部(水泳部)顧問として活躍するとともに,オルガンを巧みに弾き,音楽にも堪能であったという。

 制定当時と現在とでは歌詞の一部が異なっており,1番で俯瞰した筑波山や霞ヶ浦の雄大な自然を,2番で眼前の郷土の美しい季節の移ろいを誇らかに歌い上げる構成となっている。また歌詞は4番まであるが,現在は2番までを歌うことが通例となっている。

 歌詞は七五調のリズムで,曲は4分の2拍子であるため歌いやすく,青年の心意気を高らかに歌い上げることができる校歌である。

(「進修百年」(1997年),「アカンサス」(第13号・第57号)より一部抜粋,2023年一部改訂)



 

「真鍋台からの筑波山遠望」

 

 一高本館校舎からの筑波山。本校初の修学旅行は創立直後の明治30年6月2日の筑波山登山であった。「そそり立ちたり筑波山」は,高い理想や高い「志」を持つ一高生・卒業生を幾久しく見守り続けている。

 

 

「真鍋台からの霞ヶ浦遠望」

 

 一高旧本館前庭土手からの霞ヶ浦。正岡子規が明治22年(1889年)4月3日に「霞みながら 春雨ふるや 湖の上」と詠んだのもこの真鍋台(一高近辺)から。「終古渝らぬ霞浦の水」は,社会のために広く活躍する一高生・卒業生を幾久しく見守り続けている。



 

 

 

「源の香」



 校歌中の「源の香」とは,春爛漫の桜川源流地域で咲き誇る桜花から醸し出された香りのことを示す。源の香を載せて桜川下流を花筏がゆったりと流れる風情は趣深い。 源流地域の桜川市岩瀬地区は,古来より「西の吉野,東の桜川」と称されるほどの桜の名所。写真は,上から順に「鏡ヶ池」(桜川市山口。桜川の水源,水が枯れることがないという),「磯部桜川公園」(桜川市磯部。日本最古の桜の名所,世阿弥の謡曲「桜川」や紀貫之の和歌でも有名),「高峯」(桜川市平沢。山に自生する山桜が見事)。